離婚届は、紙なのに鉛みたいに重かった。

 

拓也は椅子に座ることもできず、玄関に立ったまま、手のひらに汗をかいた。

 

離婚届は、紙なのに鉛みたいに重かった。

 

美咲の弟は、感情の温度が低い声で言った。
「姉ちゃん、もう限界なんです。言い方悪いけど、これ以上“舐められる生活”はさせたくない」

拓也は反射的に言い返そうとした。
「舐めてなんか…」

でも、その続きが出てこなかった。
舐めていた。実際。
稼いでることを盾にして、家を“自分の舞台”みたいに思っていた。
美咲を、観客にしていた。

美咲は、静かに封筒を拓也の方へ押した。
「これ、あなたが見ないふりをしてきた分の答え」

中には、拓也が使ったカード明細のコピーが入っていた。
店の名前は伏せられていたが、金額は隠せない。
何回も、何回も、同じような額が並ぶ。
拓也の胃が、きゅっと縮む。

「調べたの?」
拓也が言うと、美咲は首を振った。

「調べなくても分かるよ。家計って、ズレるから」
鍋の火加減が少し狂うだけで焦げるように、生活は数字の違和感に敏感だ。

その夜、美咲は荷物をまとめなかった。
出ていくのは明日、とだけ言った。
最後の晩だからか、妙に部屋が静かだった。

拓也は寝室で、天井を見つめた。
スマホを握る癖で梨花のトークを開いたが、指が止まった。

 

「会いたい」

そう送れば、返事は来るかもしれない。
でも、その“会いたい”は、何に向けた言葉なんだろう。

寂しさ?
現実から逃げたい気持ち?
王冠が落ちたあと、頭が寒くなっただけ?

拓也はスマホを伏せた。
代わりに、リビングへ行った。

美咲はソファで、小さく丸まっていた。
泣いているわけじゃない。
ただ、疲れている人の呼吸だった。

拓也は言った。
「ごめん。…俺、勘違いしてた」

美咲は目を閉じたまま、ゆっくり言う。
「勘違いっていうか…自分の価値を、お金で測る癖がついただけじゃない?」

その一言が、拓也に刺さった。
昔モテなかった自分は、ずっと自分を嫌っていた。
嫌いだから、飾った。
飾りが“金”だっただけだ。

「俺、どうしたらいい?」
拓也は、情けない声を出した。

美咲はそこで初めて目を開けた。
睨まない。責めない。
ただ、距離のある目。

「分からない。私が決めることじゃないよ」
「私があなたを助ける役をやめたの」

その言葉で、拓也は理解した。
妻は、家政婦でも母親でも救急隊でもない。
本当はずっと、対等な人間だったのに、拓也が勝手に上下を作った。

 

翌日、美咲は出ていった。

 

鍵は置いていった。
戻る気がゼロではない人の置き方だった。
でも、それは希望じゃない。猶予だ。

拓也は、家の中を見回した。
洗濯機の音。冷蔵庫の低い唸り。
当たり前の音が、全部ひとり分になっていた。

その夜、梨花からLINEが来た。
「最近忙しい?店来ないね」

拓也は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
以前なら、ここで“俺は求められてる”と勘違いできた。
でも今は、文章の裏側が読めてしまう。

“客が来ない”
それだけ。

拓也は、返信欄に文字を打ちかけて消した。
そして、スマホを置いた。

代わりに、ノートを開いた。
自分が何を失って、どうやって失ったのか。
書き出した。
惨めで、痛くて、目を背けたくなる内容だった。

でも、不思議と、書けば書くほど息がしやすくなった。
初めて、“等身大の自分”が輪郭を持った気がした。

数日後、拓也は美咲に短いメッセージを送った。

「言い訳はしない。
怖かった。昔の自分が嫌いで、金で強くなった気がしてた。
もう一回、ちゃんと人として話したい。
それが無理でも、謝りたい」

送信してから、拓也はスマホを伏せた。
返事が来るかどうかじゃない。
やっと、“自分を大きく見せるための言葉”じゃなくて、
“自分の小ささを認める言葉”を使えた。

 

王冠は、もう戻らない。

 

でも、王冠がなくても立てる人間になれるかもしれない。
拓也はその日、初めて“モテる”より大事なことを知った。

家の静けさの中で。

トラスト探偵事務所