探偵業務であるストーカー行為、いじめなどが発生する原因を書いた本には頻繁に、
「パーソナルティ障害」という言葉が出てきます。
個人的な依頼のほとんどは、このパーソナル障害が関わっているのではないかと思うくらいです。
パーソナリティ障害は加害者だけでなく、被害者にも多く見られます。
自分では意識していなくても、自分の考え方や行動が加害者につけこむ隙を与えているかもしれません。
パーソナリティ障害の特性を知っておけば、自分のまわりの困った人との関わり方に変化を起こせます。
パーソナリティ障害について解説します。
パーソナリティ障害とは?
精神科医の岡田尊司氏著「パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか 」
によると「パーソナル障害は、 一言 で いえ ば、 偏っ た 考え方 や 行動 パターン の ため、 家庭 生活 や 社会 生活 に 支障 を きたし た 状態 と いえる」
と書かれています。
プライドや社交性などが高かったり、低かったりするは個人差があるので、それだけで障害にはなりません。
けど、それが生活に支障をきたすほど、傾いてしまうとパーソナル障害になります。
プライドが高すぎると、人のアドバイスを聞くことができず、逆に相手を攻撃するようになります。
プライドが低すぎると、今度は自分の考えや能力に自信が持てず、自信満々の人になびいてその人のいいなりになってしまいます。
パーソナル障害の共通的特徴
パーソナル障害は10のタイプが確認されていますが、共通している特徴があります。
自分に強いこだわりを持っている
自分を美化して理想的に思っていても、なんのとりえもない劣等感にさいなまれていても、自分についてばかり考えているのは同じです。
とても傷つきやすい
普通の人が何気なく言った一言でもパーソナル障害は深く傷つき、その傷を忘れることができなくて、いつまでも引きずります。
それが、自己否定の方向に出ると、境界性パーソナリティ障害になり、傷ついた心を補おうとして自己愛が過剰に肥大すれば、自己愛性パーソナリティ障害となります。
傷ついやすいというのは、いずれのタイプも自己愛の病理をかかえていることを示唆していきます。
自分に対する強いこだわり、傷つきやすいという2つの特徴は、対等しで信頼し合った人間関係を築くことを困難にします。
全てパーソナリティ障害の人が愛し下手で、これが安定した幸せを遠ざけています。
もっとも身近な危険なタイプ自己愛性パーソナリティ障害
パーソナリティ障害の種類の中でもっとも危険な人たちは当然、反社会性パーソナリティ障害です。
一般常識の正義が当たり前の価値観ではなく、悪を遂行することに価値をおいているのだから、そばにいるだけで危険この上ありません。
接近したら、ただちに逃げるしかありません。
自己愛性パーソナリティ障害もかなり厄介です。
自分は特別な存在だと思っている
自己愛性パーソナリティ障害の多くの人は成長期に、愛情を受けながらも突如その愛が奪われるという喪失体験をしています。
愛が無くなった大きな心の穴を埋めるために、「自分は特別な存在だと言う」妄想が広がっていきます。
実際に、人並み外れた才能や能力を持っている場合が多いのですが、内心に抱いている巨大な特権意識は、現実とはかけ離れています。
そのギャップが支障を引き起こします。
非難に弱い 時にはひきこもりになる
肥大化したプライドゆえに非難に弱いか、非難を受け付けません。
ごく小さな過ちでも、全否定されたように感じます。
その気持ちから逃れられないと、全てが台無しになったと感じひどく落ち込んでしまいます。
端から見たら華々しい成功をおさめていても、わずかなつまづきや、非難で自殺する場合があります。
ひょっとしたら、人気絶頂で自殺した芸能人にもその傾向があるのかも知れません。
外面はいいが、内では逆転する
自己愛性パーソナリティ障害の人の対人関係は2つです。
・表向きで、自分を称賛してくれる大多数の人
・現実問題の処理を代行する依存対象
前者は外面なので、その人達にはいい顔を通します。
被害者になるのは後者で、召使い、お手伝い、奴隷の役割になります。
どちらかの役割だとその存在価値を認められるが、どちらでもなくなると、容赦なく排除されます。
彼らにとっては他者は特別な存在である自分のために、奉仕する人なのです。
他人のことはどうでもいい
自己愛性パーソナリティ障害の人は、あまりにも自分が重要なので、他人のことや問題はどうでもいいのです。
反社会性パーソナリティ障害のようにあからさまに人を搾取したり、騙したりするのではなくて、社会生活では善人なのでたちが悪いです。
自己愛性パーソナリティ障害は周囲が大迷惑
権力や地位や、主導権を得ると、パワハラ、セクハラ、モラハラ DV、などあらゆるトラブルの元になります。
このタイプの圧力を避けるには二面性のうちの陽の部分に身を置くことです。
パワハラを訴えられたスポーツ指導者が、片方の選手には神や仏のように感謝されているのは二面性を持っているからなんでしょう。